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橘柳子氏の言葉から考える

10月28日あいあいセンターで行なわれた橘柳子さんの報告会に行ってきました。

橘柳子氏:旧満州大連生まれ。1945年ハルピンで終戦を迎え帰国。
大学卒業後、福島県で教師(英語)。
県教職員組合中央執行委員として活動後、現場復帰し2000年に定年退職。
震災時は浪江町在住。転々と避難し現在10か所目の福島県本宮市(もとみやし)の仮設住宅住まい


橘さんのお話しの中で特に心に残った言葉と、自分の感想を書きます。

『私は、国から二度棄てられた』
 一度目は戦争。二度目は原発事故。餓えと寒さの中、ずっと消し去っていた終戦時の記憶がフラッシュバックして蘇ったそうです。
「いったん原発事故が起きれば、障害者や老人など弱い立場の人間は、虫けらのように死んでいくしかないんです。今の避難所では、すでに3人の方が亡くなっています」とおっしゃっていました。

 私は、橘さんのこの言葉の意味が分かります。原発事故があって、私は、国は「国民」を守ってくれるものではないことを知りました。政府は国民の健康や命を守る政策を第一に考えるのではなく「国」という体制を維持することを第一に動いている、と痛感しました。
 橘さんが避難所にいる子どもたちにヨウ素剤を飲ませるよう訴えても「ヨウ素剤は副作用の心配があるから」と、配られなかったそうです。
 放射能測定をしていても、「風評被害が広がるから」と測定結果を低く伝えたり、公表しないようにする動きもあるそうです。
 弱い立場にいる人びとにとって国や政府は頼れるものではなく、自分たちの命を守るためには闘っていかなければならない現状は情けないですが、それが今の日本の「国」と「国民」の姿なんだと思います。

『これが大企業のすることだろうか』
 橘さんの住んでいた浪江町は、原発建設に反対し原発を建てさせなかった町。つまり、東電に「逆らった」町なのです。福島第一原発事故で放射能にひどく汚染されたにも関わらず、浪江町には東電からの連絡は一切なかったそうです。また、福島県で一番大きな町にも関わらず、東電からの支援物資は他の町より3分の2少なかった、とおっしゃっていました。
 
 事故の収束は見えず、効果的な除せんは進まず、被災者への謝罪・賠償も十分でない一方で、東電は福島にある原発10基のうち4基を今後再稼働させようと考えているそうです。私自身「これが責任ある企業の考えることだろうか、こんなことが許されていいんだろうか」と素朴に感じます。

『被災者の傷はあまりにも深すぎてこの体験を忘れたいという思いがある』
 「あまりにもひどい体験をした福島の人びとは、自分が体験したことを忘れようとしている。子どもたちも。私は、原発事故の風化を恐れています」とおしゃっていました。

 被災体験のない私にはしっかりとは理解できていないと思いますが、戦争体験を思い出さないようにしてきた橘さんがご自身の中で葛藤しながらも「忘れたいけど忘れてはいけない」と語る姿は印象的でした。

 福島県の中でなかなか国や東電に声を上げる人が少ない理由のもう一つには、賠償の問題もあるようです。
 強制避難の住民は、申請すれば1人10万円/月の賠償がされる。5人家族なら3ヶ月まとめて150万。それが多いか少ないかは別にして「お金は魔物」(←これは橘さんの言葉)。当面の生活を維持するために賠償を受け取ることで、住民が黙ってしまうこともあるのだと思います。
 自主避難の住民は、同じように避難していても健康被害が出ても一切補償がされていません。結局は福島に戻りそこで住まざるを得ない以上、放射能の怖さなどを語らったり声をあげていては生活していけません。


 橘さんのお話を聴いていて一番感じたのは、被災している人たちの気持ちはそう簡単には理解できないということ。でも、被災者でないゆえに、原発事故を忘れないでいること、声を上げていくことができるんだ、と思いました。
 それは、福島の人びとのため、ということではなく、全国にある原発がいつどこで事故を起こすか分からないこの日本に住んでいる自分たちのため。


  
 
 
 
 



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